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トップハート物語(5130)立志伝敢闘編
19/05/29
2013年(平成25年)3月中旬。
 この日、3月11日はあの忌まわしい日本史に残る大惨事発生した日だ。午後2時46分だったろうか。思い出すあの日。事務所で打ち合わせをしていた時に、社員が地震の揺れにうるさいくらい何度も地震だと言う。私は、地震には慣れていて東京での経験で震度5程度は何の不安も感じないくらいになっていた。
 この地は地震などほとんどなく災害もなく、台風も一度も直撃したこともないので不安に駆られたのか、何度も言うので、私も少しは気掛かりになり震源地を確認しようとPCで検索する。これまでも、宮城県では震度6や7程度の地域が限定されていても被害も発生していたので、不安になったのだ。
 検索して、驚いた。宮城県の栗原市だったろうか震度7強と出ていた。震源地は三陸沖だと確認して、すぐに固定電話から仙台の母親に連絡。元気な声だったし、被害もほとんどなく瀬戸物が数枚割れただけとの話を聞き、安心した。
 これまでも、私が仙台を離れて数回大きな地震があったが、昭和50年代の大地震で部屋の箪笥や食器棚が滅茶苦茶になって寝られずに、車の中で夜を明かしたことがあった。それに比べたら、大きな被害はなく安心していた。
再び、長い揺れを感じたが打ち合わせに移った。その後、再度パソコンで状況を確認すると被害が出ていることを文字で確認。慌てて、近くの寝泊まりしているマンションに戻ってテレビを点ける。
 余りの衝撃映像に、声も出ない。自分でも意識している声が今でも記憶にある。
 「あーっ。あーっ、あーっ。」
 恐怖と見たことのない映像に、ただただ声にならない声を上げているだけだった。
 4時に利用者宅に行く予定があって、急いで行って戻って来てまたずっと見続けていた。何もできない自分が居た。
 これは大変と、先輩に連絡。しかし、全く通じない。その日から、何度も掛け続けた。全く通じない。再度、母親に連絡したが通じない。あの時は直後だったので通じたのだ。それから、数日、私は鬱のような症状になって、この事務所に社員の出入りを禁じた。
気が立っていることもあり、また、何もしたくないと思って時には事務所で寝込んでいたことも手伝って、人と話が出来なかったのだ。すぐに帰りたかったが、被害がはっきりするにつれて交通網が遮断されていて、戻れなかったのだ。
 特に南三陸町には多くの友人がいたが、その気掛かりな一番の親友が亡くなったのを知ったのがショックだった。どうして逃げなかったのか。それを思っても仕方がない。それぞれの意識で行動したのだろうから。夫婦で亡くなったと聞いた時には、強い落胆を感じた。
 南三陸町の町長も高校の同じ学年の同窓生で、あれほどマスコミに取り上げられて生きる者と死んでいく者の差を感じた。生きなければ意味がないと実感した。優秀だったのは亡くなった彼の方だから。
 1週間も過ぎてから、亡くなったと思っていた先輩がメールをくれた。何度連絡しても通じなくて、諦めかけていた時だった。どうして連絡してくれなかったのか、通じなかっただけだった。何しろ、ニュースで、仙台市内で一番被害のあった若林区の海の前に自宅がある先輩だ。亡くなっても不思議ではなかった。あの日の夜、ニュースで
 「若林区では200から300の死体が浮いている。」
 との報道があった。 
 そのまさに若林区だった。あとからの話だが、地震の際には確かに家にいた。しかし、気が小さいと言っていた先輩が、それまでの地震のたびに逃げていた。周辺の人はそれまで、津波が来ると言っても全く来なかったので信じていなかった。
いつも、笑われていた先輩は一命を取り留めたのだ。その先輩が、岩手県の被災地に野菜を車に積んで知人に届けて行った先からメールがあったのだ。
 やっと交通網が一般人にも開放された6月、仙台や南三陸町、石巻を訪問した。続いて、同じ月に社員を現地に連れて行った。余りの悲惨さに目を覆って、信じられない光景を刻んだ。
 早いもので、すでに2年を経過した。しかし、被害を受けた多くの人たちはまだもとに戻ることはない。また、その被害を心に刻んで応援してきた人たちは忘れかけている。被害が甚大だという事は忘れない、しかし、支える気持ちが薄くなって来た。自分たちの生活が厳しく、人を思いやる気持ちをもつ余裕がないのだ。
 生きることは辛いが、生きなければならない。いつ何が起こるかわからないことを念頭に生きていかなければならない。


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