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トップハート物語(3965)立志伝敢闘編
18/02/17
2011年(平成23年)6月中旬。
5時半、先輩が迎えに来た。昨夜あれほど遅くまで飲んでいたのに、八木山の自宅を出る時に、電話で私を起こしてから出発した。私が宿泊しているホテルに迎えに来た。青葉通りで待ち合わせして、目的の南三陸町に向かった。
高速度道路に入る前に、「めしの半田屋」で朝食を食べた。とにかく安い。アジフライ、さんまの塩焼き、切干大根、冷ややっこ、味噌汁、ご飯を頼んで580円だ。普通の店の半額程度。先輩はカレーとサラダを食べていたが、その食べっぷりは流石元気そのものだった。
 高速道路は空いていたが、段々と視界に津波の残骸が見えて来た。テレビで見た映像が、自分の目を通して見える。声も出ないが、先輩は何度も見ているので、どこがどうだと解説してくれる。
内陸に入ると、その被害が見えなくなった。単調な、田園風景、山間の風景を縫って、一目散に南三陸町に向かっている。思ったより空いていて、すいすい進む。
 いよいよ南三陸町に入ると、急に多くの残骸が見える。
 「こんな風になっているんだ。信じられない。これはひどすぎる。」
 「まだ、南三陸町に入ったばかりだ。これから、中心に向かう。」
そう先輩から説明を受けて、これ以上の無残な風景を想像できなかった。
段々通って行くと、もう無残としか言いようのない街に、いや街の姿は全くない。がれきが、あちこちというより、間断なく積み上げられている。公立志津川病院の無残な姿が目に入った。
僅かに、姿をとどめているビルの残渣。布が無くなったこうもり傘のようになったガソリンスタンド。あとは、とにかくめちゃくちゃになった残骸だけが見えるだけ。町が無いのだ。町の家が少し瓦解したのではない。全く民家が無くなり、ビルの鉄骨が僅かにところどころに残っているだけなのだ。
 声も出ないまま、先輩の運転する車が進む。町というすべての機能を完全に失った街がそこにあった。スポーツセンターに向かった。まだ、8時頃だったが、センターには多くの車両が停車していた。
自衛隊や各県のナンバーを付けた応援車両。ボランティアのテントや大勢の人、人、人。その人たちは、一目見てボランテァの人たちだと分かった。地域の人たちが、列を作って並んでいるのは何なのだろう。
その先にある、部屋に入って貼り紙を見る。遺体の状態と特徴を記した紙が貼ってある。DNA鑑定の希望者を募っていた。それの列だとは思えないほど、皆話をして、そして明るい顔だったのが不思議だった。
 スポーツセンターを巡ってから、支援物資の受け付ける部屋に行った。持って来たカレンダーを渡すために、名簿に名前を記入した。町長は忙しいのか、日曜日で休みなのか、会いたいと連絡したが返事はなかった。
そのまま帰ろうとしたが、先輩が
 「折角来たのに、このまま帰るのか。町長に一目会ってから帰ろう。」
 遠慮する私を尻目に、強引に仮の役場に行った。私を車に残して、仮庁舎に入って行った。しばらくして、戻って来た。
 「まだ、9時前だし日曜日だから暗くて電気は点いていなかった。」
 そう言って、ベンチに休んで煙草を吸った。
 諦めて、私の希望の親友の家の跡地に向かった。
無残にも、何もない。先輩が、何度も訪れているので大体の家の場所が分かった。私も、一度泊まりに来た事があったので、見れば思い出すかなと思ったが、全く思い出せない。先輩が、思い出してくれて辿り着いた場所に花が手向けられていた。そこに手を合わせ、水を掛けてしばし佇んだ。
 周りは全く、ここに家があったという事を知る事も出来ない、殺伐とした風景にただただ立ち尽くした。周りをまわって、ため息をついて戻って来た。
 帰りに、被害が大きい石巻、松島、塩釜を回った。17日に来る社員をスムーズに案内する為に、下見をした。最後に、先輩の実家の跡地を見に行った。海のすぐ近くだったので、何もなくただ平地になっていただけだった。砂地なので、沈下していて無残な状態だった。
5時半に戻って来た。辛い1日だった。
 投宿先である「リッチフィールド青葉通」から出て、被災地から大量に購入した野菜が事務所に着く2時までに帰る予定だ。大きな段ボール8箱にもなった。

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