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トップハート物語(3848)立志伝敢闘編
17/11/21
2011年(平成23年)4月上旬。
 『7日午後11時32分頃、宮城県北部と中部で震度6強の地震があった。東日本大震災の余震とみられるが、マグニチュード(M)は7・1と推測され、山形県や宮城県で計4人が死亡。負傷は141人に上った。宮城県に津波警報が出され、東北各県で400万世帯が一時停電。運転停止中の東北電力東通、女川原発などでは冷却機能が一時停止した。震災から間もなく1か月。余震とはいえ被害規模は大きく、復興に水を差す形となった。
 宮城県で震度6強を観測した7日夜の余震。山形県尾花沢市では、停電で使用していた酸素吸入器が使えなくなったとみられる63歳の女性が死亡。宮城県松島町では女性(74)が停電中にベランダから落下し、8日に死亡が確認され、死者は宮城県石巻市の石巻赤十字病院が発表した2人を含め、計4人となった。ただし、宮城県は石巻赤十字病院の2人については「地震との因果関係は薄い」としている。
 一方、負傷者は警察庁のまとめで、東北6県で重傷17人、軽傷124人の計141人。建物被害は150件以上とみられる。
 停電は青森、岩手、秋田の各県全域と、宮城、山形、福島各県の一部で一時、計400万世帯以上に及び、宮城県の一部では8日午後まで信号機の停電が続いた。岩手、宮城、福島の各県では同日夜も、約70万世帯が停電しており、一部地域では携帯電話が一時不通に。通話やメールができなくなった。
 「もう嫌だ…」「朝まで眠れない」。3月11日の震災後、最大の余震。東北電力は、宮城県加美町の「宮城変電所」が故障し、東北地方の広範囲に及ぶ停電につながったと発表したが、深夜の揺れと停電に被災者の悲鳴が上がった。岩手県陸前高田市で中学校の体育館に避難していた高校3年・菅野俊さん(17)は「『ドドドドッ』という地鳴りで目が覚めた。屋根が崩れるんじゃないかと怖かった」。
 医療関係者も対応に追われた。宮城県内の災害拠点病院14か所のうち、停電のため5か所で自家発電へ。東松島市の仙石病院では停電、断水が発生し、電気は8日に戻ったものの水道が使えず、急きょ市が手配した給水車と貯水タンクにあった水を使って、約60人の透析を実施。だが、大量に必要な水が使えないため、時間を通常の6割程度に短縮せざるを得なかった。透析を担当する村田清仁臨床工学技士は「通常の態勢に戻ったばかりだったのに『またか』という感じ。患者さんは、避難所生活も重なりつらいだろう」と話した。
  復興に向け踏み出し始めた被災地に、余震が思わぬ形で立ちはだかる形となった。
 宮城県で震度6強を記録した7日夜の地震。
 東日本大震災で入院治療を受けられなくなり、同県石巻市で避難所暮らしを余儀なくされた85歳男性が、余震の1時間後に死亡した。
 男性は自宅が津波に見舞われていた。避難所で「お医者さんもいるから」と気丈に振る舞っていたが、疲労から親類のもとに身を寄せていた。男性が運ばれた石巻赤十字病院は、余震によるショック死とみている。
 死亡したのは、石巻市八幡町、元クリーニング店経営の野村初雄さん。野村さんは内臓を患い、今年3月から石巻赤十字病院に入院して治療を受けていた。先月11日の大震災で、病院は次々と運び込まれる重篤患者の治療を優先せざるを得ず、野村さんはベッドを空けるため「退院」を求められた。
 海岸線から約2キロにある旧北上川に面した野村さんの自宅は、1階部分に津波が押し寄せ、住めなくなった。市内に住む三男(52)の行方が分からなくなっているという。
 病院を出た後、石巻市内で避難所生活をすることになった。避難所では周囲に「お医者さんもいて、至れり尽くせり」と話していた。しかし、避難所での暮らしが長引くにつれて、疲れがたまった様子を見せるようになった。1週間ほど前から、市内に住む親類のもとに身を寄せた。
 7日深夜に襲った余震で、避難所になっている市立蛇田中学校に車で逃げた。だが、着いた時には座席に座ったまま意識を失っていた。石巻赤十字病院に運ばれるが、余震から約1時間後の8日午前0時36分、死亡が確認された。
 野村さんは約60年前から市内で駄菓子屋やクリーニング店を営んできた。数年前まで、夏になるとゆでトウモロコシを売っていた。市内でいち早く売り出すため、地元住民の間で、季節の風物詩として親しまれていた。
 義弟の野村建造さん(80)は「心労があったんだべな。厳しい面もあったけど、家族には優しかった。こんな死に方しなくたっていいのに……」と寂しそうに語った。』


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