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トップハート物語(3802)立志伝敢闘編
17/10/28
2011年(平成23年)3月27日。
 放射能汚染の風聞が流れている、関東に向かうのに、直前に社員が事務所に来て無事を祈られたり、
「必ず帰って来てと。」
言われて、少しは覚悟の上などと妙に深刻になりながら向かった。
 マンションに一旦戻って、着替えようと思っていると電話があった。久し振りの、旧知の東京の奴からだった。彼と私は、もう知り合って40年以上にもなろうとしている。私が仙台から、彼が上杉謙信の故郷新潟県直江津から出て来たのだ。
お互い、まだニキビ面をしていた。彼が、不快な事があり寮を出て一人で過ごし始めた東京品川区に私も遅れて近所に、私の場合は退職して住むようになった。当時は、東急田園都市線、現在大井町線下神明駅が最寄りの駅だった。
私が、駅のすぐ近くの高架下。彼は少し離れていたアパートだった。私の場合は、駅のアナウンスが電車の来るのを告げてから部屋を出ても乗車に間に合った。
 その時代に、私は妻と結婚したのだ。昭和の懐かしい時代。「神田川」の生活をした時代。赤い手ぬぐいマフラーにして、{♪二人で行った横丁の風呂屋}そのものの人生を送っていた時代の友人だ。
その彼が、このたびの地震を気にして、先日仙台の親や兄弟の行方を案じてくれた。その後、共通の知人が仙台に多く居るのでその安否を聞くと共に、また自分知り得た情報を送って呉れたのだ。
 その第2弾として、行方を調べた人たちの情報を報告してくれた。彼はまだ東京に住んでいるのだ。
 「東京のパニックは相当らしいな。本当に、水や食料品は無いのか?」
 「本当だよ。少しずつ品物はみるようになったけど、水は全くない。コンビニでも、おにぎりやパンなんて午前中で無くなる。それでも、お金が続かないからもう大丈夫いだと思う。俺なんて、水はそのまま水道水を飲んでいるよ。」
 そう言っていた。
 お世話になったアパレルの販売をしている仙台の先輩に、運転資金として使って貰おうと思って発注をしようと思っていたユニフォームの内訳がやっとまとまった。24人分、一人5万近くなるので一時的しのぎにはなる金額だろう。
実家が、仙台市の若林区荒浜で被害の一番大きかった地区だ。現在は、両親とも不在で施設に入所していた。先輩はそこを商品の倉庫兼事務所として利用していた。寝泊りもしていたので、災害が発生した当初は連絡が取れず諦めた3日間を過ごした。
 自宅は、市内の八木山という高台にあり地震の被害はあったが、津波の被害は免れた。その実家にあった顧客台帳などの大事な帳簿が流失して、なおかつ三陸海岸の町々にあった顧客自体も被害に遭って、集金も不可能になってしまった。
商品の発注先は関東地方が主で、支払いを速めるように要求してくるのもあるという。踏んだり蹴ったりのピンチだった。
 私が出来る義援は、発注をして納入は後からに、請求書を貰いすぐに支払いをする事しか出来ないので、今回そのようにした。長い期間、私の保証人として私を支えてくれた恩人なのだ。その恩人に、今返せるのはたったこれだけだが、これからも出来る事はさせて貰う積りだ。
 部屋を2時半に出てやっと待ち合わせ先の、埼玉県さいたま市浦和にある鰻の名店「満寿屋」に着いたのは、夕方6時半だった。次男夫婦が来るというので、何か話があるのだろうと思っていた。
事前に、メールで家を買うと聞いていたので、多分金を貸してくれという話だろうと予想はしていた。
 話はやはり思った通りだった。30歳の彼にとって、大一番の買い物だ。資金計画を一生懸命に話しされて、自己資金と借入金と自分の収入を考えて、500万円ほど融通して欲しいというのだ。
 「俺は金銭的なものは分からない。君代に言ってくれ。貸すなどというケチな事は言わないだろう。預け先を探しているんだから。」
 と、妻に暗に上げるように言った。
 「分かった、普通預金にそのくらいあるだろうから、振り込むから口座を教えて。」
 と、言いその話は済んだと思って、具体的な話を聞いたがネックがあるので、それをクリアして、
「確実に購入できるとなったらいつでも言うように。」
言った。
 これで、次男のメンツが立ったので安心して、美味しい食事を家族5人で楽しんだ。
被災している、母親に昼間電話をしてその現状を聞いて安心していたので、心配事は無くなったのだが、多くの同級生が見えなくなっているので、その心配を少し話をした。


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