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トップハート物語(3768)立志伝敢闘編
17/10/09
2011年(平成23年)3月19日。
『失われた命がある。新しく生まれる命がある。
 ほとんどの家屋が津波で倒壊した宮城県石巻市北上町の吉浜集落。避難生活を続けている奥田江利子さん(46)は、息子の智史さん(23)を失った。
 地震が起きた時、江利子さんは智史さんの妻(27)と市の中心部で食事をしていた。若い夫婦は、1週間前に結婚したばかりだった。
 河口に近い吉浜で働いているはずの智史さんを心配し、2人で急いで車で戻ったが、津波で道が破壊されていて進めない。車の中で一夜を明かした。
 翌日、がれきを乗り越えながら数キロ歩いて、やっと吉浜に近い避難所にたどり着いた。遺体となっていた。智史さんの妻は長い間、遺体のそばを離れず、生きる力を失ってしまったように避難所で寝込んだ。
 戻ってきた吉浜集落は見渡す限りのがれきに覆われ、跡形もなかった。自宅は全壊し、中にいたはずの両親や、智史さんとは年が離れた妹の梨吏佳さん(9)も行方がわからない。
 約200人の集落では、津波から逃れた約50人が、唯一、倒壊を免れた寺で身を寄せ合っている。がれきから使えそうな日用品や食料を探し、支え合って生きている。
 集落の人たちは、やんちゃだった智史さんをかわいがってくれた。「結婚が決まってから、本当に顔つきが男前になっとったよ」「あんたは、よう立派に育てた」。みんなで江利子さんを励ます。
 江利子さんが「私はなんで、生き残ったんだろうね」とつぶやいた。「えりちゃん! これからもがんばって生きていくんよ」と言われ、江利子さんは答えた。「多くのものを失った……。だけど、私はそれでも死にたくない、死ねない」
 智史さんの妻のおなかには6カ月の赤ちゃんがいる。「智史が残してくれた大切な命。私は、この子のためにも生きないといけない」
 「傷がつくといけないから、仕事の時は外すね」と言っていた結婚指輪は見つけてあげられなかった。その代わり、近所の人が、めちゃくちゃに壊れていた智史さんの車から、お気に入りだったサングラスを見つけてきてくれた。生まれてくる孫に見せたい、大切な形見の品だ。
 福島第一原発で作業にあたる人々が、欧米メディアやネット上で「フクシマ50」と呼ばれている。
 米紙ニューヨーク・タイムズ電子版が15日、「顔の見えない無名の作業員が50人残っている」とする記事を東京発で載せた。米ABCテレビも「福島の英雄50人――自発的に多大な危険を冒して残った原発作業員」と報道。オバマ米大統領は17日の声明で「日本の作業員らの英雄的な努力」とたたえた。
 最前線で危険な作業を担うのは、東京電力のほか、東電工業、東電環境エンジニアリングといった子会社、原子炉を製造した東芝、日立製作所などメーカーの社員たちだ。
 地震発生後には800人いたが、15日朝に4号機で火災があり、750人が退避。監視などのために残った50人が、フクシマ50になった。その後、新潟県の柏崎刈羽原発などからも応援が駆けつけ、交代しながら作業。送電線を引いて電源を確保する作業員も加わり、18日朝には総勢約580人になった。
 作業員は頭まで覆われた防護服姿。頭をすっぽり覆う防護マスクもつけている。胸には放射線量をはかる線量計。その日に浴びることができる放射線量をセットし、8割まで達すると警報音が鳴る。
 原子炉内への注水作業は、人海戦術だ。1人の作業時間を決めて弁まで行って操作。それを交代で繰り返す。格納容器内の蒸気を外に逃す弁を開く作業では、1人が大量の放射線を浴びた。18日までの負傷者は20人を超えた。
 建屋の爆発で飛び散ったがれきが、作業をはばむ。放射線量が高い1~4号機での活動は難しくなり、いまは電源確保や5、6号機に人を振り向けている。
 現地の対策本部は、原子炉の山側にある免震重要棟にある。作業員は、この棟で寝泊まりしている。東京・内幸町の本社2階にある緊急時対策室に現地の状況を伝え、指示を仰いで作業を進める。 』


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