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トップハート物語(3405)立志伝敢闘編
17/03/26
2010年(平成22年)9月中旬。
我々の年代で、このフレーズを聞いてふと足を止めない者はいない。「青春」という言葉に、多くの人が抱え切れないくらいの記憶を思い出す。苦しい事、楽しかった事、悲しい事、嬉しかった事、辛い事、感謝した事、泣いた事、耐えた事、興奮した事、淋しかった事、感激した事、頑張った事、ふざけた事や学んだ事・・・・。
ありとあらゆるものが詰まっている。そしてこの年代は、恋する、愛する、別離や逢瀬をした時代だ。文字通り、青春を無我夢中で駆け抜けた時代だ。その思いを、思い出させた時間だった。
 数日前に、新聞に「君と歩いた青春」との文字を目にして、何とかそのコンサートに行きたいと思って、発売しているローソンに行った。しかし、発券機の操作が分からず、NPO常勤理事智子さんに頼んで同行して貰い操作して貰った。
一人で行くのはいつもだが出来ないので、彼女に付き添いを頼んだ。22歳も離れて年代は、全く異なっているのだが、少しは聞いた事があると思って甘えた。予定していた帰省は取り止めて待ち切れずに2時間前に出発した。
電車で行く手もあったが、乗り換えと終わった後の雑踏を考えて車を出して貰った。
 夕方6時開演で、5時頃に会場近くに着いたが駐車場はどこも満杯。走り回って、他の何か演じている保険会社のホールの地下駐車場に入れた。一般車両は駄目と書いてあったが、気付くのが遅くそのまま地下に入ると、多くの車両が同じ目的で駐車場が見つからずにここに入って来た。
そのまま入れてくれた。30分前に入館した。その入り口に向かう道は、駅から何千人という人並みで壮観だった。その何れもが、私と同じ年代かその上。私の下が居たとしても、僅かだ。同行してくれた彼女のように30代は、極僅かで見つけるのが至難だった。誰もが、足早に会場に向かった。
 私は、仙台から就職で川崎市に出て数年後に、「いしだあゆみ」や「クールファイブ」「森進一」などを、以前あった東京は有楽町の日劇に見に行った事があり、それ以来だから30数年振りか。
入る時から、既に興奮している。出演者が、みんな私がいつも聞いている歌の、本人だからだ。ずっと興奮しながら、来る人たちの顔や仕草を見ていた。みんな中年の定年近くや定年になったような方ばかりで、どこか威厳を出そうと憮然とした表情だったり、無口だったり、誰も私語を交わす人がいない。
まだ、開演前なのだ。それだけいろんな思いに、心を馳せているだろうか。中には、既に高齢の域に達していて、足取りも重い人や一旦席を立って戻る事が出来ない人も居た。手を貸そうと思ったが、自力で辿りつくまで見守った。
時間が掛かったが、ちゃんと自分の席を見つけて座った。お年寄りは、時間だけ待てばちゃんと出来るのだ。それを、簡単に手を貸すので自立精神を失ってしまう。なんて、こんな所で介護を考えている。
 席は、遅く取り寄せたのでサイドになった。かなり上の席で、1万人だという入場者数のうち後ろの3割程度の位置に居るような感じだった。それでも十分だった。席が埋まるに従って、一人で来るお客さんが多く驚いた。勿論夫婦も目立ったが、この「君と歩いた青春」との言葉に誘われて、一人でも来たかったのだ。
 ついに開演時間が来た。南こうせつ、伊勢正三、杉田二郎、大野真澄、太田裕美、山本潤子、尾崎亜美が壇上に並んだ。拍手が鳴りやまない。みんなの思いが一体となった。全員で歌う歌が始まった。
興奮がすでに高まってしまった。感激してしまって、私は固まった。なぜか涙が滲んで来た。隣の彼女の気付かれずに、そっと滲んだ涙を拭った。みんなが手拍子を取るが、私はじっとしてもの思いに耽っていた。隣の席の夫婦も同じだった。
周りは、杉田二郎の「戦争を知らない子供たち」に合わせて、手拍子を興奮したように激しく取る。
 丁度40年前の1970年の、彼らのデビュー時代に話が及んだ。あの大阪万国博覧会開催の年だ。太田裕美が15歳のおさげ髪、山本潤子が赤い鳥で既にデビューしていたという。
南こうせつや伊勢正三はデビューしていた。そんな話を聞きながら、私は思い出していたのだ。家族の誰にも告げずに、仙台駅を朝7時出発した特急「ひばり号」に乗車していた。
当時は、東北新幹線は無かったので、特急ひばり1号だった。今は、仙台から東京まで1時間半で着くのだが、当時は特急で4時間だった。駅には、大勢の同級生が見送りに来てくれた。そのような光景が、思い出そうと思えば今でも目に浮かぶのだ。その思いに入っていた。

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